ねるちゃんが高校入学から高校2年の秋まで過ごした、長崎県長崎市を散策しました。

■巡礼ルート[巡礼地図]
長崎県立西高等学校巡礼(JR浦上駅から往復)[徒歩👣]
被爆遺構等巡礼(JR浦上駅→平和公園駅)[徒歩👣]
出島・東山手地区等巡礼(出島駅→石橋駅)[徒歩👣]
南山手地区巡礼(石橋駅→大浦天主堂駅)[徒歩👣]
繁華街等巡礼(市役所駅→新地中華街駅)[徒歩👣]
鍋冠山公園巡礼(石橋駅から往復)[徒歩👣]
『また会ってください』MV撮影地巡礼(長崎駅前南口バス停から往復)[車🚗]

Table of Contents

【長崎市の概要】

長崎市長崎県の南西部に位置する市で、長崎県の県庁所在地および人口が最多の市です。
鎖国」体制であった江戸時代には、国内唯一の江戸幕府公認の国際貿易港(対オランダ、対中国)・出島を持つ港町でした。このため出島跡を初めとして、旧居留地長崎新地中華街など、異国情緒に満ちた港町として有名です。
市の中心部は三方を山に囲まれており、住宅地の多くは山の斜面を利用しているため、「階段の街」「坂の街」としても有名です。長崎市の夜景は、モナコ・上海とともに「世界新三大夜景」、札幌市・北九州市とともに「日本新三大夜景」にも数えられています。

毎年10月7~9日に、諏訪神社の例大祭の「長崎くんち」が開催されます。奉納踊りは国の重要無形民俗文化財に指定されています。
毎年冬に、長崎ランタンフェスティバルが開催されます。市内に約1万5千個の赤を基調とした中国提灯(ランタン)やオブジェが飾られ、長崎の冬を彩る一大風物詩となっています。

1945年8月9日11時02分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂し、一瞬のうちに多くの尊い人命を奪いました。市内には、一本柱鳥居被爆クスノキといった被爆遺構が残っています。平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられ、平和の泉平和祈念像が設置されています。毎年8月9日には長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われ、原爆犠牲者の冥福を祈るとともに、核兵器廃絶と恒久平和の実現が世界に向けて発信されています。

ねるちゃんは2018年2月24日(土)に、「長崎市観光大使」に就任しています。(インタビュー記事はこちら)

①長崎県立西高等学校巡礼(JR浦上駅から往復) [徒歩ルート👣]

【JR浦上駅】

長崎西高等学校への通学で、ねるちゃんが毎日見ていた(かもしれない)、JR浦上駅から西高までの風景です。
ねるちゃんは「全国高等学校クイズ選手権」で、長崎県大会の決勝まで進出しました。

【長崎県立長崎西高等学校】
【長崎県立長崎西高等学校①(学校)】

長崎西高等学校は、ほとんどの生徒が四年制大学をはじめとする上級学校への進学を目指す、県内で一、二を争う進学校です。
ねるちゃんは昔から勉強することは嫌いではなく、高校に入ってからも、テスト前には16時間も机に向かうことがありました。
高校では家庭科部に入部して、調理と手芸を週一回(金曜日)やっていて、凝った料理を毎週作っていたそうです。
「美味しい長崎レシピコンテスト」で佳作に入賞するほど、料理は上手です。
親友のおーしゃんとは同じクラスかつ同じ部活で、二人で鍵のかかった屋上に侵入しようと試みたり、放課後に理科室でシャボン玉をしたりしていました。
高校1年生のお正月に巫女さんのアルバイトをして、ストーブで衣装を焦がして、給料から天引きされました。
高校2年の秋、ねるちゃんは上京のため、東京都目黒区の八雲学園高等学校に転校しています。

・高校でもまじめに勉強を続けていたんですか?
「私はテスト期間には1日16時間くらい勉強するガリ勉タイプなんです。でも高校には、授業中に寝ていても成績のいい人がたくさんいて、"この差はなんだ?"ってカルチャーショックを受けました」

・猛勉強して、いずれは東京の大学へ進学するつもりだったんですか?
「そうですね。ただ、高校生のときに1年間海外留学をしようと思っていたんです。その留学テストを受けていたんですけど、留学すると1年ずれて、1つ下の学年の子と卒業しなきゃいけなくて。結局、みんなの目を気にしてあきらめてしまいました。」

・「本当はこういう道を歩きたい」という思いはあったけど、それを自分で無理矢理押さえつけていた?
「そういう部分もあったのかもしれないです。本当は考えていることもあったのに、小・中学校時代の経験もあって、なにかを自己主張して、自分の人生を切り開いていくことに臆病になってしまったんだと思います」

長濱ねる1st写真集『ここから

【長崎県立長崎西高等学校②(制服)】

長崎西高等学校の女子の制服は、冬服は紺無地のセーラー服、夏服は白無地のセーラー服です。
紺無地のセーラー服って、珍しくてかわいいですよね!
ねるちゃんも、長崎西高の制服は「かわいいし都会っぽくておしゃれだなぁ」だと憧れていました💕

・ご両親には「女子校も選択肢に入れたい」って相談したんですか?
「……言いませんでした。先生にも『優秀な県立高に行けるのにもったいない』って言われていたので。でも、私が進学した高校は制服もかわいいし都会っぽくておしゃれだなぁ、という憧れもあったんです。それで頑張って勉強して合格することができました。(略)」

長濱ねる1st写真集『ここから

②被爆遺構等巡礼(JR浦上駅→平和公園駅) [徒歩ルート👣]

【みらい長崎ココウォーク】
【みらい長崎ココウォーク①(観覧車)】

欅坂46 6th Single「ガラスを割れ!」TypeD収録「長濱ねる」の自撮りTV『ねるチャンネル』で、ねるちゃんはみらい長崎ココウォーク観覧車に乗っています。

(ねるちゃんコメント)(2018.3.7リリース)
《地元をとにかく愛する長濱ねるが観覧車に乗って「冬の長崎」を紹介する紀行番組、飾らない長崎弁でのレポートにも注目です》
長濱ねる、長崎に帰ってきたばーい。これから長崎の観覧車に乗るけん。行ってきまーす。
《長濱ねると長崎で観覧車》
もうすぐね、こっちに海が見えてくるばい。海、見えるかや?船のなんかボーみたいな音とかも聞こえとったり。なつかしかー。
結構揺れとらん?あ、てかもう頂上やないか!
《冬の長崎もいいね》

観覧車はこの施設のシンボルで、一番高いところで地上70mだそうです。ゆっくりと10分51秒をかけて一周し、窓の外には長崎港や稲佐山、女神大橋を望める大パノラマが広がります。夜に乗ると、夜景が綺麗だそうです。観覧車のりばは、5階にあります。大人料金(中学生以上)は¥500。営業時間は10:30-20:30(最終搭乗20:00)です。

【みらい長崎ココウォーク②(フードコート)】

みらい長崎ココウォークの3階に、かなり広いフードコートがあります。丸亀製麺、リンガーハット、すき家、マクドナルド、銀だこ、クレープ屋さんなどが入っています。この日は土曜日のお昼時だったので、かなり混雑していました。

長崎西高等学校から一番近いショッピングセンターは、みらい長崎ココウォークです。ねるちゃんはおそらく、ここのフードコートで友達とテスト勉強中に、見回り中の先生に持っていたスマホを見つかったものと思われます(>_<)

長崎県は学校にスマホを持ってくるのが禁止の高校がけっこう多くて、私の学校も禁止でした。でも、テスト勉強の時期だけ、たまたまスマホを持って行って学校の近くのショッピングセンターのフードコートで友達と勉強をしていたことがあったんです。たしか、わからない英単語をスマホで翻訳していたときだったと思うんですけど、画面からパッと顔を上げたら、目の前に、見回り中の生徒指導の先生が立っていて、これはもう逃れられない!って
(中略)
自分でいうのもあれですが、私はクラスでもわりとまじめに生活していたほうだったと思うので、先生も驚いていて「え、長濱さんが!?」みたいな反応でした。普段は寄り道もしないし、スマホも持っていかないんですけど、タイミング悪くバレちゃったんです。なんか、やらかしちゃうんですよね。

長濱ねる 1st写真集『ここから』

【一本柱鳥居(山王神社)】

山王神社は、爆心地から南東約800mの場所の高台にあり、1945年(昭和20年)8月の原爆投下により被害を受けました。社殿は跡形もなく崩れましたが、1950(昭和25)年に再建され現在に至ります。
山王神社の参道には、一本柱鳥居と呼ばれ親しまれている鳥居があります。もともと鳥居は4つありましたが被爆によりその2つが強烈な爆風とともに倒壊しました。残った鳥居のうち1つ(一の鳥居)は戦後、交通事故により撤去されたため、現在も当時のままの姿で立っているのは右半分の柱だけを残した一本柱鳥居(二の鳥居)のみとなりました。被爆時に吹き飛ばされた左半分はすぐ近くの道路に保存されており見ることができます。住宅街にひっそりと街を見下ろす位置に立っており、原爆の悲惨さを現代に語り継いでいます。
原爆資料館に行くと、この鳥居を背景に撮影した集合写真を時折目にします。資料館を訪れる前にここを見学するとより一層理解を深められる長崎原爆遺構のひとつです。

【被爆クスノキ(山王神社)】

山王神社の境内入口にそびえる2本のクスノキは、樹齢約5~600年、胸高幹囲がそれぞれ8メートルと6メートルで、長崎市内にあるクスノキの巨樹の一つです。共に昭和20年の原爆で主幹の3分の1以上を失ったため、 樹高は10メートル内外ですが、四方に張った枝は交錯して一体となり、東西40メートル、南北25メートルの大樹冠を形成しています。原爆被災により一時落葉し枯れ木同然になったにも係わらず、2年程度の後、奇跡的に再び新芽を芽吹き、次第に樹勢を盛り返し今日に至っています。また、蘇った大楠に直接手を触れ、その生命力にあやかろうと毎日多くの参拝者の方が訪れています。長崎市出身のアーティスト福山雅治さんの楽曲「クスノキ」のモデルにもなっています。
ねるちゃんは小学生の時、フィールドワークで山王神社を訪れて、クスノキと出会いました。その後も、平和活動の一環として何度か足を運んだそうです。

(ねるちゃんコメント)(2017.8.26放送)
ずっとここにいるっていうことが、何か色んなことを見ているんだろうなって、でもこの木がずっと生きてるってことは、私の祖母も被爆してるんですけど、やっぱりどんどん高齢化していって、実際に経験している方が少なくなる一方で、やっぱりクスノキは語らないんですけれど、これを見ることで感じるものがあると思うので、すごく大切にしていきたいなあと思います。
身近におばあちゃんが実際に経験しているってことは、おばあちゃんから直接話も聞けるし、(祖母の存在は)自分にとって誇りですね。
平和とかってそれぞれ本当に感じ方が違うし、考え方も違うし、伝えることが難しいと思うんですけど、人に優しくしようとか、自分も頑張って行きようとか、そういう自分に置き換えて思うだけでも、それは絶対平和に繋がると思うので、東京でのグループ活動のメンバーとかにも話をして、原爆資料館に絶対に死ぬまでに一回は行ってみたいんだっていう子がいたりとか、長崎だけじゃなくて本当に関心がある方もいて、そういう(平和への)小さな輪を広げていって、積み重ねていきたいなと思います。
平和って何なんですかね、生きてることですね、色んな事があると思うし、悩んでいる事もあると思うし、苦しい事もあると思うし、それでも頑張って生きてることが、平和なんじゃないかなって思います。

【山王神社】

山王神社は、長崎県長崎市坂本に鎮座し、村社であった山王神社(日吉神社)と県社の皇大神宮が合併(皇大神宮側に合祀)して創祀された神社です。また、浦上皇大神宮とも称され、また山王日吉神社とも称します。
第二次世界大戦の終焉を迎える直前の昭和20年8月9日午前11時02分、長崎市への原子爆弾投下によって鎮座地が爆心地から約800メートルの地点に位置していた為に被爆し、その跡を残す二の鳥居(片足鳥居)や、原爆の熱線と爆風により、死に絶える寸前となりながらも豊かな緑を取り戻した樹齢500~600年の大楠(被爆クスノキ)が、現在では当神社の象徴となり、多くの皆さまに愛されております。

【長崎原爆資料館】

1945年8月9日 午前11時2分。広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域上空で原子爆弾が炸裂し、付近は一瞬のうちに廃墟と化し約15万人の尊い命が奪われました。この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過や核兵器開発の歴史などを紹介し、被爆から現在までの長崎の復興の様子をストーリー性のある展示を交えながら、核兵器のない世界の実現に向けて平和を発信しています。
被爆直後と現在の長崎の風景写真を比較すると、目覚ましい勢いで復興した長崎の街と長崎市民の逞しさがひしひしと伝わってきます。「原爆、戦争なんて遠い昔のこと」とはいえない現在の世界情勢。各展示物に正面から向き合うと同時に“悲惨な歴史”を受け止め、真の平和について考える意義深い時間を過ごせるでしょう。原爆・平和関係の図書閲覧ができるほか、ビデオコーナーを設置した図書室も併設しています。

(ねるちゃんコメント)(2020.8.9放送)
こんにちは、長崎県出身の長濱ねるです。今年で被爆75年、平和とは、私は人と人とが想い合う事だと思います。相手の事を想像する想像力、そして相手をリスペクトし、歩み寄る姿勢。今の世の中にも自分にも、まだまだ足りてない部分だと思います。
そして今、コロナウィルスという、目に見えない大きな恐怖に世界中で直面しています。自分の事は自分で守る、そして自分の行動が自分の大切な身近な人だけでなく、見知らぬ方々に影響するということを心に留めて、行動したいと思っています。
そして平和とは生きること、日々を生きていく中で、生き続けることが難しいと感じる日々がありますよね。私も思ったことがあります。でも生きていると変えられるので、自分で生き続けて、環境を世界を変えていけたらなと思っております。
被爆75年、当時二十歳だった方が95歳になられるという、長い月日が経ちました。しかし75年前に、今から想像もできないような、現実が広がっていました。私たちにできる事は、語り継いでいくこと、そして二度と同じ事を起こさない事。一緒に私達で未来を作っていきたいと思っています。

【原爆落下中心地(平和公園)】

1945年8月9日11時02分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂し、一瞬のうちに多くの尊い人命を奪いました。現在、その地には落下中心地標柱として黒御影石の碑が立てられています。園内には被爆当時の地層も残されており、そこには原爆によって壊された家の瓦やレンガのほか、約3,000度の熱で焼け溶けたガラスなどが今も大量に埋没しています。
原爆の爆風により、爆心地周辺のほとんどの樹木は倒れ焼き尽くされたことから70年は草木も生えないだろうという“70年不毛説”が流れましたが、1ヶ月後には約30種類の植物が次第に芽吹き始めました。今ではすっかり緑に囲まれ、かつての惨状を思い浮かべるとその逞しい生命力や復興を遂げる不屈の精神を感じることができます。公園の周囲には桜の木が植えられ、春になるとその桜が見事に咲き誇ります。年間を通して四季折々に風情が変わる市民の憩いの空間として親しまれています。

【平和の泉(平和公園)】

原爆のため体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいきました。その痛ましい霊に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いが込めて浄財を募り建設された円形の泉が、「平和の泉」です。1969年(昭和44年)に完成し、平和公園の一角、平和祈念像の前方に位置しています。
被爆し水を求めてさまよった少女の手記を刻んだ石碑が正面に設置されており、当時の惨状を重々しく映し出しています。平和の鳩と鶴の羽根をイメージした噴水が舞い、平和祈念式典の前夜には数多くのローソクが灯され、犠牲者を悼む催しも行われます。

【平和祈念像(平和公園)】

原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられました。長崎市民の平和への願いを象徴する平和祈念像(高さ:9.7m,重さ:30t,材質:青銅,制作者:北村西望氏)。制作者は長崎出身の彫刻家で、この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。

ねるちゃんは、欅坂46の公式ブログで毎年、原爆と平和についてのメッセージを発信していました。

きょう、112 (2016.8.9)

今日8月9日は、長崎に原爆が投下された日です。今日で71年経ちます。私は長崎県出身で幼い頃から平和について考える機会をたくさん与えていただいてきました。そんな中で、幼い頃は地球をひとつの国にして争いがなくなったらいいのになと思ったこともありました。しかし様々な経験を経て、違いがあることの美しさや大切さを感じました。
いま私たちにできることは、歴史上の事実を偏りなく知ること、いまの世界情勢に目を向けること、ものを大切にすること、人を思いやり違いを認めること、かなと思います。
記憶が風化していかないように若い私たちが、ちゃんと目を向けて伝えていかなければいけないと思います。亡くなられた全ての方にご冥福をお祈りしますと共に、今も苦しんでいらっしゃる全ての方にお見舞い申し上げます。

https://archive.sakamichi.co/keyaki/blogs/4261

灯、224 (2017.8.9)

今日、8月9日は長崎に原爆が投下された日です。72年目を迎えます。私が、発信することを職業としてから2年目の「原爆の日」です。今の世界は、様々な問題を抱えています。私が知らないことも沢山。世界が平和ならいいのに。世界を平和にしたい。ずっとそう思っていたはずなのに18歳になった私はいつからか、自分になんてそんな規模が大きすぎる、現実的に考えて無理だ。勝手に悟り、諦めるようになっていました。しかし今、沢山の偶然と運命に導かれ、こうやって発信できる場所にいます。
自分が平和について考えること。想いを共有し、皆さんの頭の中に少しでも思い出してもらえるようなきっかけ作りをすること。被ばく者の方や偏りのない真実に耳を傾けること。今の自分ができることです。自分だからできることです。私は、真正面から向き合って、その責務を全うしていきたいです。犠牲となられた全ての方々のご冥福をお祈りしますと共に、現在も苦しんでおられる全ての皆様にお見舞い申し上げます。
8月26日の午前10時から長崎国際テレビさんの「クスノキ」という特別番組に出演させて頂きます。長崎市の山王神社にある被爆クスノキを直接訪れさせていただきました。この機会も、本当に奇跡が重なり多くの方のご協力があっての出演でした。自分の使命を感じ、この偶然に心から感謝しました。番組内であなたにとって平和とは何ですか?という問いかけがありました。本当に難しい質問です。長崎のみの放送ですが、是非ご覧ください。
そして、今日、欅坂46全国ツアーは福岡公演を迎えます。2年前の夏、私が憧れを抱き、息を呑んで見ていた乃木坂46さんのライブと同じ福岡国際センターの舞台に立たせて頂きます。お父さんとお母さんの心を変えた場所。私が初めて未来を想像して胸を躍らせた場所。あの日がなければ、今はありません。この職業ではなかったかもしれません。8月9日という日に、その場所に立たせて頂けること。運命だなと思います。いつも通り、全力で取り組ませていただきます。

https://archive.sakamichi.co/keyaki/blogs/11155

白、299 (2018.8.9)

今日、8月9日で、長崎に原爆が投下されてから73年が経ちます。犠牲となられた方々に謹んでご冥福をお祈りしますとともに、今なお苦しんでおられる全ての皆様にお見舞い申し上げます。今を生きていられることが当たり前じゃないことを少しでも感じる日になりますように。

https://archive.sakamichi.co/keyaki/blogs/16808

【浦上天主堂】

長崎市のキリシタンの聖地のひとつ浦上地区にあり、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た信徒達によって建設が計画された浦上教会(浦上天主堂)。資金難の苦労を乗り越え1914年に東洋一を誇るレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられました。正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられましたが、そのわずか20年後の1945年、原爆により浦上教会は無惨にも少しの堂壁を残し壊滅、アンジェラスの鐘も鐘楼もろとも崩れ落ちました。
現在の建物は原爆投下から約14年後の1959年にコンクリートで再建されたのち、1980年にレンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元されました。周囲には被爆遺構の石像などが配され、今も原爆の爆風に耐えたもう一方のアンジェラスの鐘が時を告げています。浦上教会内の信徒会館1階には原爆遺物展示室が設置されています。浦上教会の歴史や、被爆前後の写真を紹介したパネルのほか、信徒の家庭から寄贈された聖母像などが展示されています。

【如己堂】

永井隆記念館に隣接する如己堂は、永井隆博士の病室兼書斎です。原爆で無一文となった浦上の人々やカトリック信者仲間達の厚意によって、博士のための新しい住まいとして建てられた2畳の建物です。博士はこの建物を“己の如く隣人を愛せよ”という意味から“如己堂(にょこどう)”と名付けここで晩年を過ごしました。
襲い来る白血病の病魔と闘い、寝たきりになりながらも必死に執筆活動に励んだ永井博士。このわずか二畳の部屋の中から博士は、浦上の人々をはげまし続け、「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命(せいめい)の河」「長崎の鐘」などの小説や随筆を発表し、「この子を残して」は映画化、「長崎の鐘」はレコード化され、戦後の名曲として今に歌い継がれています。

③出島・東山手地区等巡礼(出島駅→石橋駅) [徒歩ルート👣]

【出島】

徳川幕府の命により築造された人工の島「出島」。1636年に完成し約200年もの間、わが国で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。明治期に役割を終えた出島の周囲は埋め立てられ海に浮かぶ扇形の原形は姿を消しましたが、1951年長崎市が出島の復元整備を開始し、現在までに16棟の建物や景観が当時の姿を取り戻しました。まるで19世紀の初めにタイムスリップしたかのような空間が広がります。

2017年には、出島表門橋が完成し昔と同じように渡って出島に出入りできるようになりました。夜になるとライトアップされ周辺一帯の魅力をより一層高めています。江戸時代の生活を模した部屋や発掘調査で出土した資料などが展示されているほか、明治時代から残る洋館での食事、四季折々のイベントも楽しめ、長崎を代表する観光拠点として人気を集めています。門番などに扮した歴史スタッフが案内するガイドツアーに参加したり、着物をレンタルしてレトロな街並みをバックに写真を撮ったりと、粋な気分を味わえます。

【長崎出島ワーフ】

日蘭交流400周年を記念して2000年に長崎港ベイエリアにオープンした複合商業施設「長崎出島ワーフ」。海や夜景を見ながらリゾート気分を味わえるスポットです!

【長崎水辺の森公園】
【長崎水辺の森公園①(公園)】

長崎水辺の森公園は、長崎港ベイエリアの水と緑が豊かなスポットです。運河が配され憩いの場として多くの人が利用する長崎のシンボル的な公園です。長崎で有名な帆船まつりやみなとまつり、ペーロン選手権など年間を通してさまざまなイベントを間近で体感できます
運河が流れる園内は主に「大地の広場」、「水の庭園」、「水辺のプロムナード」の3ブロックに分かれ、どの空間もゆったりと開放的な雰囲気に包まれています。潮風が心地よい芝生広場や、子ども達が水遊びできるエリアは特に家族連れに人気です。また野外劇場のスペースもあり、どんなステージがあるかイベント情報を入手してから出かけるもオススメ!
運河にかかる橋の名前は「あじさい橋」や「オランダ坂橋」など。長崎らしいネーミングの橋に旅情を感じます。また、園内の至る所設置された石のベンチは多彩なフォルムをしており、それぞれ長崎に江戸時代から伝わるハタ(凧)を模していたり、長崎にまつわるさまざまなものがモチーフとなっています。公園一帯は夜になるとライトアップされ、昼間とは違うロマンティックな空間へと移り変わります。毎月第1日曜日に開かれる「日曜マーケット」では、野菜や手作り雑貨の販売テントやキッチンカーなどが軒を連ね多くの人で賑わいます。

ねるちゃんにとって「水辺の森公園」は、小さい頃に公園で行われるイベントによくお母さんと参加したり、上京することを友達に打ち明けるなど、たくさんの思い出が詰まった場所なんだそうです。

【長崎水辺の森公園②(女神大橋[遠景])】

長崎水辺の森公園から、女神大橋(ヴィーナスウィング)が見えます。女神大橋は、長崎港によって分断されている長崎市南部と西部を最短距離で結んでいます。塔と桁を斜めに張ったケーブルでつないで支える構造を持つ斜張橋としては、国内で6番目の長さを誇り、大型船舶も通過可能な桁下65mの高さを確保しています。
また、夜間にはライトアップされ、香港・モナコと共に「世界新三大夜景」のシンボルとなっています。通常は白を基調とした照明ですが、イベントの際は彩りある演出照明がされます。その美しさは「日本夜景遺産(ライトアップ夜景遺産)」にも認定されました。
有料道路「ながさき女神大橋道路」となっていますが、歩行者は無料で通行することができます。車の場合は、ながさき女神大橋道路は駐停車禁止なので、駐車場に車を止めて散策しましょう。

【長崎市立梅香崎中学校】

梅香崎中学校で、『また会ってください』のMVが撮影されました。
「じゃあね」ってあなたから言われたら黙って頷くだけ♪

【オランダ坂】

洋風住宅が立ち並び異国情緒あふれる東山手地区にある石畳の坂です。江戸時代日本で唯一貿易が行われていた長崎では、出島に住むオランダ人の影響か開国後も東洋人以外の人を「オランダさん」と呼んでいました。そのため当時「オランダさんが通る坂」という意味で外国人居留地にある坂はすべてオランダ坂と呼んでいたと考えられています。現在は、主に活水女子大学下の坂、活水坂、誠孝院(じょうこういん)前の坂がオランダ坂と呼ばれています。
オランダ坂の石碑のそばにある水色の洋館、東山手甲十三番館は入館無料で気軽に立ち寄れるスポットです。明治時代に外国人住居として使用されていた建物で、当時の様子を伺うことのできる内装や調度品を見学できます。カフェスペースもあるので、散策途中の休憩にいかがでしょうか。

【東山手甲十三番館】

東山手甲十三番館は、東山手のオランダ坂西側にたつ明治中期に建てられたブルーの洋館です。昭和初期から中期にかけて、フランス代理領事アンドレ・ブクリ氏が住んでいた外国人居留地の代表的な建物です。木造2階建て寄せ棟造りで2007年には国登録有形文化財に指定、CMのロケ地としても知られます。
まず玄関のアーチをくぐると、庭の左手に見えるのは植え込みをハート型に剪定した「ハートリーフ」が迎えてくれます。修学旅行生やカップルが集まる話題のフォトスポットです。レトロな建物の2階は当時の住人の暮らしをイメージできる空間になっており、写真や調度品が展示されています。広いバルコニーからはオランダ坂を含めた景色が見られ眺望は最高!坂道観光の休憩スポットとして人気の1階のカフェでは、ダッチコーヒーやカステラサンドが味わえ、ゆっくりくつろぐ事ができます。
また居留地時代のレトロなドレスを着て記念撮影をしたり、結婚式の前撮りやパーティーなどで貸切ることも可能。館内には観光情報コーナーやおみやげ販売コーナーもあり、気軽に立ち寄れるオススメスポットです。

【東山手十二番館(旧居留地私学歴史資料館)】

オランダ坂の上に建つクリーム色のオシャレな洋館、東山手十二番館は1868年に建設されたもので、東山手地区では現存する最古の遺構。外国人居留地を代表する洋風建築で、1988年国の重要文化財に指定されています。
当初はロシア領事館が置かれていましたが、その後アメリカ領事館やメソジスト派(婦人外国伝道協会)の宣教師などの住宅として使われました。長崎港の眺望を重視した幅広いベランダや正面中央の幅の広い廊下、ゆったりとした間取りの3つの部屋などに領事館当時の名残りを見ることができます。
1941年に学校法人活水学院に譲渡され、教室としても使われましたが、1976年に建物は長崎市に寄贈され、2005年「旧居留地私学歴史資料館」がオープン。私学とはキリスト教団体が異教徒の多い国に布教の目的で設立した学校(ミッションスクール)のことで、明治時代東山手地区には数多くのミッションスクールが建てられました。
資料館ではそのミッションスクールの歴史が紹介されているほか、宣教師が使用していた家具、食器棚などが展示されています。ベンチが多く設置されていますので、休憩しながらゆっくり洋館の雰囲気を楽しむのがオススメです。

【東山手洋風住宅群(7棟)】

オランダ坂を上った階段状の狭い敷地、急傾斜地を上下2段に造成し密集するように建つ7棟の洋風住宅群。1890年代頃に建築されたこれらの木造洋館は、内外とも意匠や仕上げが質素で、構造材料が各棟がほぼ同一であることから、社宅や賃貸住宅として計画的に建設されたと推定されます。
このような用途の住宅遺構群が残っていることは、全国的に類例がなく、ここでしか見ることができない景観です。現在は6棟が活用され、東山手地区町並み保存センター、古写真・埋蔵資料館では、写真や映像等で居留地時代の様子が紹介されています。ワールドフーズレストラン東山手「地球館」は、国籍を問わず多くの人が利用できる、国際交流の拠点となっています。

【長崎孔子廟 中国歴代博物館】

長崎孔子廟は『論語』で知られる儒学の祖、孔子の遺品を納め祀ったのが始まりです。1893(明治26)年に中国清朝政府と華僑によって建造され、その後幾度かの改修を経て現在に至ります。彩り豊かな極彩色で中国建築様式の伝統美きわまる廟宇(びょうう)は、一歩足を踏み入れた瞬間華やかな中に厳かな空間が広がります。 
国内最大の子坐像を祀る大成殿やひとつとして同じ顔のない七十二賢人の石像は、圧巻で荘厳な雰囲気。併設の中国歴代博物館は、北京故宮博物院をはじめ中国各地の博物館が所蔵する国宝級の貴重な文物を常時展示しています。また史料館には長崎孔子廟が所蔵する関連資料や多数の銘品を展示。孔子や孔子廟のことを学ぶには絶好のスポットです。
中国の伝統芸能であり、その仕掛けは国家機密とされる「変面」。長崎孔子廟には2名の変面師が所属しており、イベントなどでその伝統を披露します。年間を通じて様々な式典や祭典が行われ多くの観覧客で賑わいます。

ランタンフェスティバル期間中は毎日、中国変面ショーが行われます。また、「ながさき恋ランタン」の祈願所が設置されて、恋ランタンについている祈縁牌に恋愛成就の願い事を書いて奉納することができます。(参加費1個¥1,000円)

④南山手地区巡礼(石橋駅→大浦天主堂駅) [徒歩ルート👣]

【グラバースカイロード】

斜行エレベーター(グラバースカイロード)は、徒歩しか手段のない斜面市街地に住む高齢者や障害者の方が安全で快適に移動できる生活の交通手段ですが、一般、観光に関係なく無料で利用できます。1階の乗降口では、車の乗降は可能ですが駐車場はありません。また、トイレは和式なので、最上階広場の垂直エレベーター近隣の南山手レストハウスにはバリアフリートイレがあります。南山手レストハウス(洋風建築)の入場は無料で、館内や庭でゆっくり休憩ができます。

【長崎市南山手レストハウス】

長崎市南山手レストハウス(南山手乙27番館)は、建設当時、旧南山手居留地乙27番にあった建物で、幕末に建てられたとされています。石造りの外壁を持つ初期の外国人居留地住宅で、テラスに石柱と木柱が併用された独特な特徴を持っています。
グラバースカイロード」の斜行エレベーター乗降口に近く、グラバー園にも近接しているため、地域の人々や観光客が気軽に休憩できる施設として活用されています。建物内は無料で見学でき、長崎の古写真などの資料も展示されていています。
庭からは、東山手方面の町並みが広がり、玄関側からは大浦天主堂の向こうに長崎港を望むことが出来ます。夜は近くの大浦天主堂、祈念坂、大浦展望公園などとともにライトアップされ、昼間とは違った幻想的な趣きをみせています。

【祈念坂】

大浦天主堂の路地裏に沿うようある「祈念坂」。明治初期頃に整備された石畳の道で、観光名所として人気の「祈りの三角ゾーン」を150mほど通りすぎた距離にあり、ひっそりと落ち着いた雰囲気を醸しだす、居留地時代の遺構が現存する歴史的価値のある坂道です。
映画『解夏』や『ペコロスの母に会いに行く』、アニメ『色づく世界の明日から』など、物語の舞台としても度々登場している有名スポットで、映画やアニメの聖地巡礼スポットとしても訪れる価値アリです。
坂のふもとには大浦諏訪神社(神社)、妙行寺(お寺)、大浦天主堂(教会)が隣接する「祈りの三角ゾーン」があり、坂を挟んで神社、寺、教会が対峙する珍しい情景に出会うこともできます。作家の遠藤周作がこよなく愛した坂としても知られています。

【グラバー園】
【グラバー園①(旧三菱第2ドックハウス)】

1858年(安政5年)、江戸幕府はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5ヵ国と修好通商条約を結び、新たな時代に進む日本へ、夢を抱いた外国人商人が集まりました。1641年(寛永元年)より218年に渡り設置された出島のオランダ商館は幕を閉じ、条約により開港都市となった長崎には「居留地」が生まれました。長崎港を見渡す丘陵地には日本風の屋根瓦に覆われた洋風建築が立ち並び、各国から来崎した外国人たちの日常がそこにはありました。この地にある「グラバー園」。冒険商人トーマス・グラバーをはじめ居留地時代から残る外国人の住宅と長崎市内に点在していた洋館が集まるこの地では、幕末から明治の長崎の歴史を感じることができます。石畳や石段、長崎港を一望できるロケーションと共に、歴史、文化の香りに包まれながら、特別なひとときをお過ごしください。

旧三菱第2ドックハウスは1896年(明治29年)、三菱造船所(現三菱重工業株式会社長崎造船所)の第2ドックの建設時に建てられた外国人乗組員用の宿舎です。「ドック」は造船所の主要施設で、船の建造や修理を担うところです。
建築当初は「第2ドック」に隣接していたため「第2ドックハウス」という名称でしたが、1965年(昭和40年)に立神に新しく第1ドックと第2ドックが建設されたのを機に、これまでの「第2ドック」の名称を「第4ドック」とし、隣接していた建物も「第4ドックハウス」と改称しました。その後、建物は第4ドックが閉渠する1972年(昭和47年)まで同造船所で使用されたのち、建築当初の「第2ドックハウス」名称に戻し、グラバー園へ移築されました。

【グラバー園②(旧ウォーカー住宅)】

この建物は主人であるロバート・ウォーカー二世が明治中期に建てられたと考えられるこの建物を1915年(大正4)に購入しました。
瀟洒(しょうしゃ)な外観で、建物の周りをベランダが囲い、張り出し窓からは日光が入り心地よい雰囲気を醸し出します。旧所在地である大浦天主堂横の祈念坂沿いにあった頃は母屋のほか風呂、トイレ、和室もありましたが、移築の際、洋風の意匠を残す部分のみが移築されました。

【グラバー園③(旧リンガー住宅)】

建物の構造は、木造に外壁を石造とし、天草の砂岩を使用し、ベランダの床にはウラジオストクから運んだ御影石を敷いています。正面中央が出入口で、廊下左右に4室を配置し、厨房とメイド部屋が附属しています。
この住宅には明治から昭和にかけて、イギリス人のフレデリック・リンガーとその家族が親子三代で暮らしました。旧リンガー住宅が建つこの敷地はトーマス・グラバーの弟アレキザンダーが1864年(元治元年)に永代借地権を取得し、1868年(明治元年)に住宅を建てました。フレデリック・リンガーが借地権と建物を取得したのは1874年(明治7年)で、結婚を機に1883年(明治16年)から妻のカロリーナと暮らし始めました。住所の「南山手2番」にちなみ、「NIBAN(2番)」という愛称を付けました。リンガーが死去したのち、1913年(大正2年)からは次男シドニー・リンガーが住みました。戦時の混乱を経て、1965年(昭和40年)まで家族と暮らしましたが、1965年(昭和60年)長崎市へ売却し、シドニーはイギリスで余生を送りました。
ちなみに外食チェーン・リンガーハットの社名は、リンガーにちなんで付けらたそうです。

【グラバー園④(旧スチイル記念学校)】

旧スチイル記念学校は(Steele Academy)は東山手9番の英国領事館跡地に建てられました。設計を行ったのはアメリカ人宣教師ヘンリー・スタウトで、外観は教会を思わせる形が特徴です。また幾度となく増改築をしており、大正時代には踊り場から別棟に向かう渡り廊下があり、現在はその名残で2階に上がる階段の踊り場が広くなっています。
この学校は1887年(明治20年)9月に開校しました。学校の名称は、当時アメリカのダッチ・レフォームド教会の外国伝道局長であったスティール博士の名前に由来します。彼の息子ウィリアム・ヘンリーは18歳の若さで亡くなり、スティール博士はこの学校を建設するにあたり、息子を祈念し建設資金を寄附しました。
開校後、私立東山(とうざん)学院、私立中学東山学院、明治学院第二中学部東山学院と校名は改称されましたが、英語教育と特色ある学風で1932年(昭和7年)までの45年の歴史を長崎の教育史に刻ました。その後、東京の明治学院に合併されると、長崎公教神学校、東陵中学校、海星学園校舎と変遷し、1972年(昭和47年)に海星学園より保存のため長崎市が寄贈を受け、翌年グラバー園に移築し復元されました。

【グラバー園⑤(旧自由亭)】

自由亭のシェフであった草野丈吉は1840年(天保11年)に長崎市内の農家に生まれ、21歳で出島のオランダ総領事のもとで働き西洋料理を習得しました。その後1863年(文久3年)、24歳の時に長崎市伊良林(いらばやし)に「良林亭(りょうりんてい)」という日本人初の小さな西洋料理専門店を開業し、長崎奉行の外国人接待などに使用されました。またのちに日本赤十字社を設立した佐賀藩の佐野常民が来店した際、丈吉は佐野のすすめで店名を「自遊亭」から「自由亭」としました。自由亭は、当時の長崎の三大西洋料理店「小島郷福屋」、「西浜町清洋亭(精洋亭)」のひとつで、 内外の貴賓、地元高官などの社交の場に利用されていました。
1867年(慶応3年)、丈吉は大阪の土佐商会に呼ばれ、前土佐藩主山内容堂に士分をと取り立てられました。同年、外国官権判事だった五代友厚の命により大阪川口居留地にホテルを開業。ほかにも京都博覧会に際して外国人向けホテルを経営や、明治天皇の食事、来日した各国の要人たちに料理をふるまい活躍しました。
グラバー園に残る「旧自由亭」は丈吉が1878年(明治11年)に長崎市馬町で開業した西洋料理店で、建築当初は2階にベランダがありました。丈吉の死後、1887年(明治20年)に自由亭は廃業し、この建物は、検事正官舎として使用しました。この時期に改築を繰り返しており、現在の造りは検事正官舎として使用されていたときの状態で、現在、喫茶室になっている部屋は応接室として使用されていました。また本来は和式の部分もありましたが、旧所在地からグラバー園に移築する際、洋風の意匠の部分のみ移築されました。
現在は2階部分が、レトロな雰囲気を味わえる喫茶室として活用されています。

【グラバー園⑥(旧グラバー住宅)】

建物の平面は採光と通風を意識した半円形で、日本瓦や土壁(漆喰)を用いています。木造菱格子の天井を持つ広いベランダが特徴で、石畳の床に立つ木製の独立円柱、柱間の吊束(つりづか)を持つアーチ型欄間(らんま)が開放的な雰囲気をかもし出しています。
同邸宅の最初の主人であるトーマス・グラバーは1859年(安政6年)21歳の時に長崎へ来航し、居留地として定められた南山手に自邸を建てました。グラバーは大きな松の木のすぐ横に建てられた自邸に「IPPONMATSU」という愛称をつけ、周囲からも「一本松邸」と呼ばれました。グラバーが1862年(文久2年)に設立した「グラバー商会」が1870年(明治3年)に倒産すると、住宅の権利は弟のアルフレッドに譲渡され、アルフレッドは管理人として住宅を居留地の人々に貸し出しました。その後グラバーが上京し、アルフレッドが死去すると、息子の倉場富三郎夫妻が住宅の権利を持ち、そこを住まいとしました。
富三郎は第二次世界大戦が始まると住宅を三菱重工長崎造船所(現三菱重工業株式会社長崎造船所)へ売却。終戦後はアメリカ進駐軍の接収を経て1950年(昭和32年)長崎造船所開設100周年を記念して同造船所から長崎市へ寄贈され、翌年から一般公開が始まりました。1961年(昭和36年)には「旧グラバー住宅」の名称で国の重要文化財に指定され、2015年(平成27年)に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界遺産に登録されています。

【グラバー園⑦(長崎伝統芸能館)】

長崎くんち」とは、約370年の歴史と伝統を持つ、諏訪神社の例大祭です。現在は10月の7、8、9の3日間行っていますが、かつては旧暦の9月9日に行われていました。ここのか、を9日(くにち)と読みますが、それが「くんち」と呼ばれるようになったと言われています。長崎くんちの奉納踊は、1979年(昭和54年)に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
長崎伝統芸能館では、「長崎くんち」に奉納される白龍、青龍や、各踊町の奉納踊りを先導する豪華な飾りのついた「傘鉾」などを展示しています。

【大浦天主堂】

大浦天主堂は、幕末の開国後に長崎居留地に建設され、国内現存最古の教会として知られています。南山手グラバー通りに面して建ち、美しいステンドグラスが施されたゴシック様式の教会です。1864年末に竣工した翌年3月、浦上の潜伏キリシタンが訪れ信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。建立直前に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会であり、天主堂の正面は殉教地である西坂に向けて建てられています。
聖堂内のステンドグラスの一部は1879年の改築当時のもので、歴史ある荘厳な雰囲気に包まれます。レンガ造の教会ですが表面は漆喰で白く塗られています。1933年に国宝となりましたが、原爆による損傷の修復が完了した後、1953年に再度国宝に指定されました。
また、2018年にユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつとなっています。隣接する旧羅典神学校や旧長崎大司教館は現在、キリシタン博物館として開館しています。長崎のキリシタン関連資料が展示されており、歴史上重要な資料を数多く見ることができます。

【ドンドン坂】

長崎市の「坂道景観13選」に選ばれた長崎港を一望できる異国の薫り漂う石畳の「どんどん坂」。雨に濡れた石畳はより一層趣が増します。グラバー園大浦天主堂に近い南山手の静かな住宅地にあり狭く長いまっすぐな坂は、歩きだしたら止まらなくなりそうな急勾配。洋風の古い石畳の両側には、美しい赤レンガ造りの「マリア園」や数軒の洋館が現存、外国人居留地の面影が色濃く残されとてもエキゾチックな雰囲気です。
坂の脇には三角溝と呼ばれる排水溝があり、水流の速さを調節するために溝の形を坂の上部からU字、中部のV字、下部の矩形へと変化させ流れをスムーズにする工夫がされています。雨が降ると雨水がドンドンと音をたてて流れてくることから通称「どんどん坂」になったとか。
坂の頂上からは、広い青空と長崎港を中心に山々が取り囲むすり鉢状の長崎ならではの景色が広がります。夕暮れから夜にかけての眺めは素晴らしく、ライトアップされた長崎造船所と世界遺産の「ジャイアント・カンチレバークレーン」がキラキラ輝いて見えます。静かで落ち着く知る人ぞ知る穴場スポット、夜景をゆっくり楽しむことができます。

【長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館】

開港して間もない幕末の長崎に代理店を置き、1892年に長崎支店を開設した「香港上海銀行」。その新社屋として1904年に建設された国指定重要文化財である「旧香港上海銀行長崎支店」を活用した博物館です。2・3階に「長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」を併設しています。
正面は装飾が豊かで側面はシンプルな造り、典型的な西洋建築様式「ファサード建築」で建てられた石造3階建の建物は、明治から昭和初期に活躍した建築界の異才、下田菊太郎が設計した中で唯一国内に現存する作品。長崎市内に残る洋館の中で最大級の大きさを誇っています。
1階は、銀行として使われていた当時の様子を伝える展示と、休憩等気軽に利用できる多目的ホールとなっており、2階では、中国革命の父・孫文とその革命を支えた長崎出身の実業家・梅屋庄吉の国境を越えた友情の物語と長崎華僑の人々の活躍が紹介されています。3階では、楽しく学べる体験コーナーもあり、貿易港長崎の歴史や、日本の近代化に大きな役割を果たした上海航路と国際通信、居留地での外国商人たちのくらしや、建築家・下田菊太郎の業績を紹介しています。

ねるちゃんは、地元長崎のニュース番組に特集で出演した際に、この建物の1階でピアノを演奏して、実はピアノがあんまり弾けないことが判明…

長濱が、自身のプロフィールに書かれている“ピアノ”について、実は弾けないことを明らかにした。
長濱:(プロフィールに)書いちゃうと弾けるって思われるけど、あんまり弾けない。やってたのは事実だから、「ピアノ弾いてました」とは言ってるんだけど
高瀬:うんうん
長濱:前に、(地元の)長崎のニュース番組で私の特集を組んでいただいたことがあって。長崎ロケをしたのね。そのときのロケ地に、ピアノが用意されてて……
高瀬:(笑)
長濱:で、あれ? ピアノがあるぞ? と思って(笑) 結構ライトアップされてて、ピアノが(笑)
高瀬:あはは、すごい(笑)
長濱:ピアノの前でインタビューしていただいて。そしたら、「ちょっと後ろ、ピアノありますよね? 1曲弾いていただけませんか?」って言われちゃって
高瀬:うん(笑)
長濱:本当に弾けないの。高校1年生ぐらいで辞めちゃってるから、3~4年ピアノ触ってなくて。で、一番記憶が新しい『ノクターン』を弾こうとしたの。1フレーズ、私が弾けるところまで一生懸命思い出しながら、ミスしながら弾いたんだけど。でも、チラッとカメラマンさんとか見ても、“もうちょっと弾いて”っていう顔をずっとしていて
高瀬:大変やん(笑)
長濱:1コーラスを5回ぐらい繰り返して、みんな、ガッカリではないけど、「あ~…」みたいな反応になっちゃって
高瀬:う~ん、大変やね
長濱:もう、大きな声で言いたい。弾けないです!

https://news.1242.com/article/155900

⑤繁華街等巡礼(市役所駅→新地中華街駅) [徒歩ルート👣]

【ツル茶ん 本店】
【ツル茶ん 本店①】

長崎市内には、「ツル茶ん」が2店舗あります。
・「ツル茶ん クラシック」長崎市魚の町3-15(最寄り:市役所駅)
・「ツル茶ん 本店」長崎市油屋町2−47(最寄り:思案橋駅)

ねるちゃんが『ここから』で"ミルクセーキを食べている(注:飲むのではない)"のは、「ツル茶ん クラシック」の方です。
ツル茶ん クラシック」は閉店時間が早いようで既に閉まっていたので、「ツル茶ん 本店」を訪問しました。

(後日電話で確認したところ、「ツル茶ん クラシック」は不定期営業だそうです。本店に応援に行ったりするので、10時から14、15時までだったりとか… 前日又は当日に、必ず電話で営業時間を確認しましょう!)

最初に「お好きな席へどうぞ」と案内されたので、「長濱ねるさんのサインは何処にありますか?」と聞いたら、1階の奥の左側のテーブルに案内してくれました。
2階に上がる階段の脇には、ねるちゃんの写真をアレンジしたパネルが展示してあります。

【ツル茶ん 本店②】

昔懐かしトルコライス」と「ハーフミルクセーキ」を、ねるちゃんのサインを眺めながらいただきました。
とても美味しかったです。
トルコライス」は長崎で生まれて50有余年。ピラフ、スパゲティ、トンカツなどが一皿に盛られた、ボリューム満点の贅沢メニューです。
長崎の「ミルクセーキ」は、さらさらな液体ではなく、スプーンですくって食べるフローズンデザートです。
一般的なミルクセーキは牛乳に卵や砂糖を入れたものですが、長崎ではこの材料にかき氷が加わるため、シャーベット状のミルクセーキになるのです。
次回は「ツル茶ん クラシック」に、行ってみたいと思います。

【ツル茶ん クラシック】
【ツル茶ん クラシック①】

前回の巡礼で訪問できなかった、「ツル茶ん クラシック」を訪問してきました。

長崎市内には、「ツル茶ん」が2店舗あります。
・「ツル茶ん クラシック」長崎市魚の町3-15(最寄り:市役所駅)
・「ツル茶ん 本店」長崎市油屋町2−47(最寄り:思案橋駅)

ねるちゃんが『ここから』で"ミルクセーキを食べている(注:飲むのではない)"のは、「ツル茶ん クラシック」の方です。
ツル茶ん クラシック」は不定期営業なので、前日又は当日に、必ず電話で営業時間を確認しましょう!

【ツル茶ん クラシック②】

店内には、ねるちゃんのサインが飾ってありました。
「ハンバーグおいしかったです!また来ます」「可愛いお店で本当に大好きです」

お店の本棚に『ここから』があったので、ねるちゃんが"ミルクセーキを食べている(注:飲むのではない)"ページを見ながら、「トルコライス」と「ミルクセーキ」を、いただきました。とても美味しかったです。
次回訪問するときは、ねるちゃんが美味しいといっているハンバーグを食べてみたいと思います。

(ねるちゃんのコメント)
トルコライスって知ってる?
トルコライスって何が乗っとるか、想像して。
トルコライスってまず大元(おおもと)が、カツカレーなの。に、ナポリタン。
本当美味しいから、がっつくよね。炭水化物、炭水化物って。本当美味しいんだよ。

【長崎市役所】

2023年(令和5年)1月4日に開庁した長崎市新庁舎。19階の展望フロアは、地上80mからの景色が楽しめる眺望スポットです。年末年始を除き、夜9時半まで無料開放しており、夜景も楽しめます。
施設内はバリアフリーに対応しており、車いすご利用も安心して利用ができる優先トイレを設けています。また、案内表示などもカラーユニバーサルデザインを導入して、安心してご利用いただける施設となっています。
新たな魅力が加わった長崎市庁舎へぜひお越しください。

【諏訪神社】

諏訪神社は鎮西大社と称えられ、地元では"おすわさん"と親しまれる総氏神様です。創建は1625年。当時はキリスト教が広まり他教を排斥したため、市内の社寺は破壊されることが多く、肥前唐津の青木賢清が長崎奉行・長谷川権六に願い出て造営したものです。
1632年には、青木が初代宮司になり、1634年から祭礼を行うようになりました。現在まで続く秋季大祭「長崎くんち」は、毎年10月7~9日に行われる豪華絢爛でエキゾチックなお祭りで、奉納踊りは国の重要無形民俗文化財に指定されています。
1648年に現在の場所に造営されましたが火災により焼失。孝明天皇の勅命により、1869年に社殿が再建されました。その後2度に渡って造営された現在の社殿は、異国情緒豊かな長崎においては珍しい純和風のたたずまいです。
"おすわさん"のご利益は、厄除け・縁結び・海上守護。境内にはユニークな狛犬(こまいぬ)散歩道や恵比寿・大黒縁結び(恋占い)、災難除けのかえる岩など見どころが盛りだくさんです。

諏訪神社かどうかは不明なのですが、ねるちゃんは高校1年生のお正月に巫女さんのアルバイトをして、ストーブで衣装を焦がして給料から天引きされたそうです。

【興福寺】

寺町通りに建つ朱色の山門が印象的な「興福寺」は、わが国最初の唐寺で日本黄檗宗(おうばくしゅう)発祥の地。1620年、中国の南京地方出身者が、真円(しんえん)を開基として媽姐堂・仏殿を建てたので、南京寺とも呼ばれます。禁教令下の江戸時代初期は中国からの来航者が多く、自分たちがキリスト教徒ではないことの証明と、海の守護神「媽祖(まそ)」を祀ることを目的に唐寺を建立し、菩提寺としました。
1632年第2代住職・黙子如定(もくすにょじょう)は本堂である大雄宝殿(だいおうほうでん)を建立。その後火災や暴風で大破し、1883年に再建されました。中国工匠による中国南方建築の代表作で、緻密な彫刻やアーチ型の天井等があり、圧倒的な美しさを誇ります。黙子如定は眼鏡橋を架けたことでも有名です。
絵の才能に溢れる第3代住職・逸然(いつねん)は漢画を日本に伝え、のちの画家たちに影響を与えた人物。中国から高僧の渡来を切望していた逸然たちが1654年、日本黄檗宗の開祖・隠元(いんげん)を招き第4代住職となります。
隠元禅師はインゲン豆や野菜果物、印鑑に木魚、煎茶や普茶料理(ふちゃりょうり)などを中国から持ち込み、日本文化に多大なる影響を与えました。

境内には国指定重要文化財の大雄宝殿や旧唐人屋敷門、県指定有形文化財の媽祖堂や鐘鼓楼、三江会所門(さんこうかいしょもん)や山門などの文化財や碑がたくさんあります。

【眼鏡橋】
【眼鏡橋①(橋)】

1634(寛永11)年、興福寺の黙子如定(もくす にょじょう)禅師が架設したとされている「眼鏡橋」です。
川面に映る影が双円を描き「メガネ」に見えることからこの名前がついたと言われ、東京の「日本橋」、山口の「錦帯橋」と並び日本三名橋に数えられます。
1982年の長崎大水害で一部崩壊しましたが翌年復元され、国の重要文化財に指定されています。

水位が低い時は、階段を使って川縁に降り水際を散策できるようになっています。眼鏡橋をはじめとする中島川護岸にあるハートストーンは恋愛成就のパワースポットとして注目されているので、訪れた際にはぜひ探してみてください。
長崎の冬の風物詩、ランタンフェスティバルの時期には、「眼鏡橋」周辺も提灯で華やかに飾られ普段以上に多くの人で賑わいます。

ねるちゃんが1st写真集『ここから』で、お店の前で撮影した「きっちんせいじ(路面電車がモチーフの洋食店)」は、2017年12月30日に閉店しています…

【眼鏡橋②(中島川会場①)】

川の両岸から空中に吊されたランタンの明かりが水面に反射して、とても綺麗でした。
ちなみに翌日に強い風を伴う雨が降って、吊るされているランタンが何個か破損してしまいました…
ランタンフェスティバルの会期中に大掛かりな修復はなかなか難しいと思うので、破損していない状態のランタンを鑑賞したい方は、フェスティバル期間の前半に訪問すると良いのかもしれません。

【眼鏡橋③(中島川会場②)】

中島川の両岸の歩道には、動物のオブジェが設置されていました。
ねるちゃんの大好きな羊のオブジェもありました🐑

【中央公園】

中央公園は、長崎市の中心部、長崎市公会堂や市民会館などがある電車通りを、賑橋交差点から親和銀行の方に曲がったところにあります。ブランコやシーソーなどの遊具があり、木陰にはベンチも設置されているので、小さい子どもから高齢者まで気軽に立ち寄れる憩いの場として市民に親しまれています。 また長崎市の冬を彩る催し「長崎ランタンフェスティバル」の会場のひとつになっている公園で、開催時には多くの観光客が訪れます。 専用駐車場はありませんが、コインパーキングが周りにたくさんあります。公園内はフラットで、スロープの付いたバリアフリートイレが1ヶ所あります。

中央公園には、動物のオブジェが多く設置されています。なかでも有名なのが姿が怖いと話題になっている、「人喰いパンダ?」です。2003年のデビューで、今年(2024年)で「21歳」になったそうです。

【浜んまち】

浜んまち「浜町アーケード」と「ベルナード観光通」を、少し散策しました。
ねるちゃんは、手芸部で布を買いに「浜町アーケード(浜の町商店街)」によく来ていたそうです。

ランタンフェスティバル中は、浜んまち会場に「月下老人」のランタンのオブジェがあります。「月下老人」は中国の縁結びの神様。運命の二人の足首を赤い糸で結ぶのだそうです。良縁を求める人や好きな人と結ばれたい人は、月下老人にお願いしてみてはいかがでしょう。長崎ランタンフェスティバル特製の「赤い糸のお守り」(100円)をご用意してお待ちしています。

【白水堂 思案橋本店】

創業明治20年の老舗「白水堂」は、長崎市内中心部の思案橋に本店を構えています。同店では、「桃かすてら」が人気です。中国からの文化を受け継いで、長寿を願う縁起物である桃を合わせたカステラが、桃カステラです。
長崎の繁華街・思案橋電停のそばに本店を構えています。

【思案橋ラーメン】

長崎県が生んだスーパースター、福山雅治さんご用達の「思案橋ラーメン」に行ってきました。
店の奥の壁には福山雅治さんのサインや年賀状が、たくさん飾られています。
名物メニューの「爆弾ちゃんぽん」をいただいてきました。爆弾とは「にんにくペースト」のことで、真ん中にがっつりにんにくがトッピングされています。

【岩崎本舗 浜町観光通り店】
【岩崎本舗 浜町観光通り店①】

岩崎本舗 浜町観光通り店」に、行きました。
角煮まんじゅうちゃんの、大きなぬいぐるみはもう無いそうです…
ストラップ(中)を購入して、角煮まんじゅうを頂きました。
とても美味しかったです。

【岩崎本舗 浜町観光通り店②】

ランタンフェスティバル中は、角煮まんじゅうちゃんもランタンのオブジェになっていました。

【西浜町停留場】

路面電車(長崎電気軌道)の「西浜町停留場」で、『ここから』と同じカットを撮影しました。
ねるちゃんは、この電停で撮影した路面電車と一緒に写っている写真が、すごくお気に入りだそうです。
路面電車では、全国の交通系ICカード(Suica等)も利用できるので便利です。

長崎市内で撮ったカットで、お気に入りがあれば見せていただけますか?

学生時代によく行っていた、浜の町の電停で撮った写真です。ランタンフェスティバルとか行くのによく使っていた電停で 路面電車と一緒に写っている写真がすごくお気に入りです。

https://www.nagasaki-press.com/enjoy/entertainment-interview/new-entertainment/entertainment-topics/20180110-neru-nagahama-event/

【長崎新地中華街】

横浜・神戸と並ぶ日本三大中華街のひとつ、長崎新地中華街。JR長崎駅から路面電車にゆられて10分足らずで到着というアクセスも便利な定番の観光スポットです。江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために、海を埋め立てて作られました。東西、南北あわせて約250mの十字路に中華料理店をはじめ、中国菓子や中国雑貨など約40店舗が軒を連ねています。異国情緒漂う街並みを楽しみながら見た目のキュートな中華スイーツや角煮まんじゅうの食べ歩きはいかがでしょうか?長崎名物「ちゃんぽん」や「皿うどん」は、店舗それぞれに個性豊かな味わいがあり、食べ比べに挑戦するのもオススメ!中華食材雑貨店は上海や香港直輸入の食材など豊富な品揃えでお土産選びの時間も楽しくなりますね。
毎冬開催されるランタンフェスティバルでは約15,000個のランタン(中国提灯)が中華街を幻想的に彩ります。一般的な提灯の他に、芸術的な大型ランタンオブジェも展示され見応えたっぷり!また特設会場では本場中国の舞踊や、伝統的楽器の演奏が楽しめます。もともとは旧正月を祝う春節祭として始まった催しですが、今では長崎の冬の風物詩として知られる人気のイベントとなっています。

【中国菜館 江山楼】

江山楼は、昭和21(1946)年創業。こだわりのちゃんぽんをはじめとした中華料理を提供し続けている名店です。長崎市出身のさだまさしさんが行きつけのお店でもあり、同店のイメージソング「秘伝」も作成しています。

ねるちゃんは「シューイチ」で、長崎イチおいしいちゃんぽんとして、江山楼の「特上ちゃんぽん」をオススメしていました。
ランタンフェスティバル期間中に江山楼に行ってみましたが、既に受付終了でした…

【湊公園】

長崎新地中華街に隣接する湊公園ランタンフェスティバル期間中は、メインオブジェをはじめ、大小様々なランタン装飾に彩られ、幻想的な世界へと様変わりします。初日の点灯式のほか、期間中は龍踊りや二胡演奏など毎日多彩なステージイベントが繰り広げられ、中華グルメやランタングッズなどの屋台も立ち並びます。

ランタンフェスティバルのメイン会場で、超混雑していて会場の奥まで入れませんでした… パンダの親子のオブジェは、この会場にいました。

【唐人屋敷跡①(土神堂)】

1639年、外国貿易は中国とオランダの2国のみとなり、貿易のために来航したオランダ人は出島に住まわせましたが、唐人(中国人)たちは、長崎市中に散住することが許されていました。しかし、密貿易やキリスト教伝播の恐れがあったため、1689年、江戸幕府は、現在の十善寺地区に唐人屋敷を建設し、唐人たちを住まわせました。唐船で長崎に着いた唐人たちは、役人の厳しいチェックを受けたのち、わずかな手回り品のみを持って、唐人屋敷へ入りました。
唐人屋敷は、高い塀で囲まれ、さらにその外側は堀や竹垣で囲まれていました。出入り口には番所があり、人の出入りが厳重に制限されていました。唐人は、ひとりで外出することは許されず、外出が認められるのは、唐寺へ団体で参拝するときなどに限られていました。唐人屋敷の敷地内には、木造の長屋が数十棟建ち並び、多いときには約2千人の唐人が生活していたと言われています。
1859年、日本が開国すると、唐人屋敷を出て大浦の外国人居留地や新地に進出した唐人も多く、唐人屋敷は荒れ果てていきました。その後、1868年に正式に解体され、唐人屋敷は179年間の歴史を閉じたのでした。

ランタンフェスティバル中は、唐人屋敷跡で「ロウソク祈願四堂巡り」のイベント(参加費¥500)が行われます。「土神堂」「天后堂」「観音堂」「福健会館」の四堂を巡り、それぞれのお堂に金色で「春節祭」書かれた赤いローソクをお供えすると願い事が叶うとされるものです。4つのお堂にはそれぞれ神様がまつられており、長崎の歴史や文化に大きく影響を与えた中国文化の原点をみることができます。史跡を巡り厳かな世界を感じて頂けます。

土神堂は、1691年に唐人屋敷に滞在していた船主たちの願いにより、唐人屋敷に建てられたお堂の中で、一番最初に建てられました。1784年におこった大火で焼失し、唐3か寺(興福寺・福済寺・崇福寺)により復旧されました。その後も火災や老朽のための改修を経て、現在の建物は、1977年に復元されました。
土神堂にまつられている土神さまは、福徳正神ともいわれ、土地や家を守り、豊作、金儲け、治病の神様として、中国古来から民間で広く信仰されてきた神様です。
土神堂前の広場では、土神さまの誕生日(2月2日)にお祭りが開かれ、舞台を仮設し、唐人踊りや劇などが催されていました。

【唐人屋敷跡②(天后堂)】

天后堂は、海の女神 媽祖さま(天后聖母とも呼ばれる)をまつるため、1736年に、当時唐人屋敷に入居していた南京地方の唐船主たちによって建立されたお堂です。
当時、唐人たちは、唐船で、季節風にのり、海を渡ってやってきました。その航海の安全を祈るため、媽祖像を船内にまつり、日本に着くと、唐人屋敷内の天后堂へお運びしました。このようすは、現在のランタンフェスティバルで、「媽祖行列」として再現されています。
このお堂には、中央に、媽祖さまがまつられているほか、向かって右側に関帝が、向かって左側に観世音菩薩がまつられています。

【唐人屋敷跡③(観音堂)】

観音堂は、1737年に福建出身の唐船主によって建立されたと考えられています。その後、再建やいくどかの改修を経て、現在の建物は、1917年に改築されたものです。入口のアーチ型の石門は唐人屋敷時代のものといわれています。
本堂には、向かって右側に慈悲深い仏として中国で古来から慕われている観世音菩薩が、向かって左側に商売繁盛の神である関帝がまつられています。

【唐人屋敷跡④(福建会館)】

福建会館は、唐人屋敷が解体されたのち、1868年に福建省南部出身の貿易商たちの会所として建設されました。唐人屋敷のあった時代、この場所には聖人堂というお堂が建っており、その基盤の上に福建会館を改築したという記録が残っています。1888年の火災で焼失し、1897年に現在の会館が再建されましたが、会館本館の建物は原子爆弾により倒壊し、正門と天后堂が現存しています。
このお堂には、2体の媽祖さまがまつられており、ランタンフェスティバルの「媽祖行列」では、小さい方の媽祖さまを、寺町の興福寺までお運びします。

【長崎県庁】
【長崎県庁①(特大横断幕)】

長崎県庁は、長崎駅から徒歩約10分で海のそばにあります。
ねるちゃんと福山雅治さんの、特大横断幕?が天井から吊してありました
ねるちゃんの等身大パネルの件を総合案内の方に聞いたら、担当に電話で確認してくれて、パネルの展示期間が終わりましたとの事でした。
8階には展望テラスがあって、長崎港や市街地を一望できるそうです。

【長崎県庁②(かもめポスター①)】

アトリウムには、「西九州新幹線かもめ」の全7種類のねるちゃんのポスターが展示されていました。

波佐見町:料理がもっと楽しくなるかもめ。
平戸市:お魚で季節を味わえるかもめ。
佐世保市:寄り道が多くなるって、素敵な旅なのかもめ。
島原市:たまにはゆっくりするのも、大事かもめ。

【長崎県庁③(かもめポスター②)】

アトリウムには、「西九州新幹線かもめ」の全7種類のねるちゃんのポスターが展示されていました。

雲仙市:迷えるって、幸せかもめ。
島原鉄道 大三東駅(島原市):大切な人のことを、思い出しちゃうかもめ。
長崎駅(長崎市):今日は、良い日になりそうかもめ。

最後の1枚には、ねるちゃんの手書きコメントが入っていました。
「かもめ出発!ようこそ魅力いっぱいの長崎県へ 長濱ねる」

【長崎商工会館】

長崎商工会館(長崎商工会議所が入っているビル)の、1階にやってきました。
ねるちゃんのサインが書かれた「西九州新幹線かもめ」のオブジェと、手書きコメント入りのねるちゃんのポスターが展示されていました。

【稲佐山(夜景)】

モナコ・上海と共に「世界新三大夜景」、北九州市・札幌市と共に「日本新三大夜景」に選ばれ、「1000万ドルの夜景」とも称される長崎市の夜景。
まずは、鉄板!長崎夜景といえば、稲佐山から。稲佐山からの夜景は、きっと誰も文句なし!長崎港を中心にすり鉢状になった地形を見下ろすので、夜景がとても立体的に見えます。
稲佐山の高さは333メートル。東京タワーと同じ高さから見下ろす長崎の街並みは、まさに絶景。展望台はぐるっと一周できるので、市街地の反対側も要チェックですよ!こちらからは夕焼けと、空気がきれいな日は五島列島まで見渡すことができます。
山麓から山頂を結ぶロープウェイでは、ガラス張りのゴンドラから360度ワイドビューの空中散歩を楽しめます。

長崎駅構内バス停から、長崎ロープウェイの淵神社駅まで、無料循環バスが出ています。(完全予約制)
ロープウェイ運賃(淵神社駅~稲佐岳駅)は、大人往復(1,250円)です。所要時間は5分です。(営業時間 9:00~22:00)

⑥鍋冠山公園巡礼(石橋駅から往復) [徒歩ルート👣]

【鍋冠山公園(夜景)】

長崎夜景の二番手として上がるのは、「鍋冠山(なべかんむりやま)」です!実は地元民の間では「稲佐山よりも鍋冠山派」という人も多いんです。
その理由は、ずばり標高。333メートルの稲佐山と比べて、鍋冠山は標高169メートル。標高が低い分、夜景を近く感じられるんです。
ダイナミックな長崎夜景をより近くから見られますよ。
大浦のグラバースカイロードも、鍋冠山のすぐ下。グラバー園の夜景も見える!?そして、綺麗さもさることながら、稲佐山に比べると人も少ない穴場・・となると推さないわけにはいかないですね!長崎港に入ってくる船の汽笛も聞こえ、迫力満点。海上を通る船のライトアップも美しい!女神大橋方面もきれいです!

アクセスは市の公式サイトには、路面電車「石橋」駅から徒歩約2分、グラバースカイロードを利用し、グラバー園第2ゲートから徒歩約10分と記載されています。しかし実際に歩いてみた感じでは、後半は急な登りの階段が続くこともあり、体感では徒歩20分ほどかかりました。下りならば約10分で着くと思います。街灯も整備されているのですが、夜は暗くて少し寂しい感じの道を通るので、もし女性が一人で行くなら懐中電灯を持参すると良いかもしれません。
夜間に徒歩で鍋冠山に登るのは少し大変なので、路面電車「石橋」駅の周辺からタクシーを利用するのが良いでしょう。下りは楽なので徒歩で下ってこれます。もし日中の巡礼で歩き疲れているようであれば、展望台の駐車場でタクシーに待ってもらって、タクシーで往復するのが良いでしょう。

⑦『また会ってください』MV撮影地巡礼(長崎駅前南口バス停から往復) [車ルート🚗]

【閑居庵(閉店)】

『また会ってください』のMVの冒頭、海の向こうに端島(軍艦島)が見えるテラスで、ねるちゃんがノートのパラパラ漫画をめくっているシーンがありますが、このシーンは「閑居庵」というカフェで撮影されました。
2024年1月30日に電話で確認したところ、コロナ禍後ずっと店を閉めており、MVを撮影したテラスは改装しようと思い、板を外してしまったそうです…

【高浜海水浴場】

高浜海水浴場で、『また会ってください』のMVが撮影されました。
「また会ってください」 その一言が言えない あなたに負担をかけてしまいそうな気がして♪

高浜海水浴場からは、沖合に端島(軍艦島)が見えます。高浜海水浴場へのアクセスは、長崎バス長崎駅前南口バス停から[30系統]樺島線 樺島ゆき に乗車して、高浜海水浴場バス停まで約1時間です。10~13時台はバスが出ていないので要注意です。海水浴場で巡礼を済ませたら、高浜海水浴場バス停から南越バス停へ移動しましょう。

なお、高浜海水浴場と南越バス停は長崎市の中心部から離れているため、長崎駅前からバスの往復で約2時間、バスの待ち時間や巡礼時間も含めると約3時間かかります。日程に余裕が無ければ、スルーするのもアリだと思います。

【南越バス停】

南越バス停で、『また会ってください』のMVが撮影されました。
初めての恋は眼差し(まなざし)もぎこちなく 時間(とき)が急ぎ足であっという間に通り過ぎてく♪

高浜海水浴場バス停から南越バス停へは、約3分で到着します。MVの撮影当時は青いプラスチック製のベンチでしたが、現在は青いドラム缶を改造したベンチになっています。

【南越バス停近くの坂道】

南越バス停近くの坂道で、『また会ってください』のMVが撮影されました。
夕暮れの緩い坂道を歩く 木漏れ日がなぜか切なく感じた♪

南越バス停と坂道の巡礼を済ませたら、南越バス停から[7系統]樺島線 ココウォーク茂里町ゆきで、長崎駅方面へ戻りましょう。